初盆、住職とお経を一緒に読経したー。我が家は「真言宗」翌日に菩提寺の納骨堂に足を運ぶと、掲示されている貼り紙に「悪口陰口、両刃の剣、他人も己も傷を負う」の文字が目に止まる。
昔、広尾町に拠点を置いていた馬頭観音寺に信仰していたこのは、もう30年前の過去である。当時、住職も少々高齢ではあったが、いつも熱く語った「お経の意味」を何度も説教して頂いた、あの有難い教えを思い出し書いてみることにしよう
生まれたきた全ての人間は、多くを苦しみ多くの悲しみを背負い生涯付きまとう。それを様々な努力で乗り越えて一生終える訳だ・・・その意味。人は其々ではあるが弱いものです。幸せにたどり着けるための知恵・教えが「お経」であり、仏様の教えを信じて人生を全うするための取説・・・。葬儀の時にお経を読むのは、死者に対する施しではなく、参列してお悔やみという時でないと、一般の人々は仏様の説教を聞く機会はないのです。人は必ず死を迎えるのは自然の道理であることを確認していく場でもあり、「死」という人間にとっての永遠の苦悩を、葬儀で参列しお経に接することで、生きて行くための知恵を授かるのが葬儀のお経だと・・・その様な説教であったと思うが、その後の小生の人生観に大きな影響を受けたのです。
生きる知恵の教えの一つに、人間はジャングルや孤島で一人で一生終えることはなく、必ず他人と関係し沢山の人と出会いがある訳で、多ければ多いほど楽しいことも多いのだが、その反面、人間関係でつまずくことも多くなる。「四苦八苦」と説かれている苦しみの代用的なものが、人間関係から起因するものだという。
馬頭観音寺の住職の説教の中で「悪口陰口、両刃の剣、他人も己も傷を負う」と言っていたのが、菩提寺の掲示板の貼り紙をみて思い出した。言葉には魂が宿るもの。人の人生も変えることもでき、苦しみ悲しから救う力もある。逆に、人を苦しめ命を奪うこともできる魔力もあるので、使い方次第では、いわいる「言刃」となってしまう。一旦、口から出した「言刃」は取り消すことができない・・・巡り巡って己に跳ね返り己自身を傷を付けると・・・